「山桜」


ニューサンピア埼玉生越 ロビーコンサート (制作:嶌田昭成)



:菅井千春、詞と曲:高橋れい子、編曲:辻田雅美) 

    

山桜ひらひらと舞っている 谷川はさらさらと流れてる
ひらひらさらさら ひらひらさらさら 山の調べの中

 

山桜はらはらと散ってゆく 谷に舞いほろほろと泣いている
はらはらほろほろ はらはらほろほろ 山を抱いている

 

山桜きらきらと光ゆれ 谷からはさわさわと風の声
きらきらさわさわ きらきらさわさわ 山は黙っている

 

                    菅井千春と「歌の花咲き山」HP


「山桜の花」

 この「山桜」は、都幾川村(現ときがわ町)に引っ越してすぐ1996年に生まれた歌です。それまでは越生町の黒山の山奥に約15年間、築200年をこえた古い民家を借りて住んでいました。木を扱う仕事をしている私たちが山に住んでいて必然的に出会ったのは、様々な樹木、きこりさんたち、そして木を愛する人たちでした。 

 

 '91年頃の春、同じ越生に住む友人の長谷部操さんが、龍ケ谷(越生町)の奥にある山桜を見に行こうとさそってくれました。長谷部さんたちは、山桜の大樹が伐採されるということを聞き、何とかそれを止めてもらおうとして、各方面に一所懸命働きかけていました。

 車から降りて山道を登った所にその樹はあり、清楚な花が空に映えていました。彼女が持ってきてくれた生姜入りの水でのどをうるおし、疲れがたまっていた私は思わず大樹のくぼみによりかかり、ひと時身をあずけました。お日様の光が降りそそぎ、くぼみにたまった陽に、体も心も暖められほぐされて、感謝して私たちは山をおりました。 

1992.12月から埼玉新聞に連載された「越生の野の花」  - 山桜保存の経緯
1992.12月から埼玉新聞に連載された「越生の野の花」 - 山桜保存の経緯

 当時、樹を切り出すための道まで作られていたそうですが、彼女たちの努力の甲斐あって伐採は中止していただけることになり、埼玉県で3番目に大きい山桜の樹ということで、97年には越生町の天然記念物に指定されました。

 

  この歌が生まれてしばらくして、ときがわ町の辻田雅美さんが編曲をしてくださり、私には思いもつかないような、花びらが舞う光景の美しい前奏間奏後奏をつけて下さいました。「ぽっぽの木」では手回しオルゴールで多くの方にこの曲を紹介してくださり、菅井千春さん(越生町在住)もピアノ弾き語りで歌ってくれていました。

 その後、縁あって2012から千春さんが「ニューサンピア埼玉おごせ」のロビーコンサートで歌わせてもらうようになり、少しずつ応援してくださる方も増えてくるようになりました。千春さんの心に沁みる美しい歌声のおかげで、最近は疎遠になりがちだった越生の知人たちとも再会でき、以前お世話になった空師の小澤章三さんが中心になって、龍ケ谷の地元の方たちが山桜へ登る長い道の整備の奉仕活動をされていたことも初めて知りました。 

 

 今、私が住んでいる家の裏20mほどの所にも、龍ケ谷の山桜ほどではありませんが大きな山桜の樹があります。染井吉野などの桜とはちがって高いところに花が咲くので、山から陽が昇ると、朝は一番に花に日が当たり神々しいほどに白く輝きます。花びらが散るころは、サーッと風が吹くと高いところから散華のように家全体にふりかかって、まるで別の次元に入り込んだような気持ちにもなります。たくさん咲くと華やかですが、ひとつひとつの花は質素で清楚な、心が洗われるような花です。(2014.4月)              

 


❀龍ケ谷の山桜

写真は、龍ケ谷で生まれ育った、山口写真館の山口万里子さんが撮影されたものをお借りしました。


「山桜の樹」

 

 現在、龍ケ谷の山桜の樹への途中には、空師の小澤さんの詩が書かれた立て札が立っています。その言葉は長年、危険と隣り合わせの厳しい仕事をされてきた経験の中から生まれ出たものだと思います。


「その体は忍耐の塊のようだ。激しい試練に耐えてこそ その姿が訪れた人を魅了する」
「風雪耐えて伸びる木も 苦労重ねて月日を刻み
いつか大きな木に育つ それが年輪人も木も」 

 

空師の仕事、写真/南達夫
空師の仕事、写真/南達夫

 鳥のように高い木の上からはるか彼方を見渡し、普通の人にはできない特殊技能の、難しいからこそやりがいのある仕事ではあっても、過去に高い木から落ちて命にかかわるような大けがをしたこともあるそうです。それでも木に登ることをやめることはなく、昭和54年から続けてきた空師の仕事を今年の春に引退されました。


 この山桜の樹にこれほどたくさんの花をつけるのは長年の風雪に耐えてきた幹や枝があってのことです。高さは18mあり、枝張りは東西13.2m 南北20.2mというググーッと大きく突き出た重い枝を、折れないで支えている力と柔軟性がこの木にはあるということでしょう。そしてそれらのすべてを支え、ふんばらせている根の張りの力は、私たちの目には見えませんが、尋常なものではないだろうと思われます。
 人も木も、この世の荒波の中でたくさんの試練を経験し、また美しい花を咲かせ、年輪を重ねていきます。小澤さん本人はいたずら書きだという、立て札に書かれた言葉は、春になるとハイキングで花を見にくる多くの人に、この大樹の年輪に刻んできた長い一生の物語を想像させてくれるだろうと思います。  

 


「 綾錦(あやにしき)を織り成す山- 広葉樹と針葉樹」

材木のこと

 山桜の木は花が咲くだけでなく、その幹は材木になります。適度な堅さと緻密なねばりのある木で、狂いも少ないので、江戸時代には浮世絵、印刷物の版木として使われていたというのは有名ですが、現在でも家具などに使われています。フローリング材としても流通しているようですが、生産量が少ないため、高級材として扱われており、私たち(都幾川木建)もまだ建材としては使ったことはありません。
  この龍ヶ谷の山桜の木も、もし伐採していれば径が大きく長いので、さぞ良い材になっていただろうと思いますが、最終的に伐採は取りやめになり、山桜は今も多くの人に美しい花を見せてくれています。 (上記「越生の野の花」の新聞記事に経緯が書かれています。)
  
   この龍ヶ谷の大きな山桜のように特殊な木は別として、山の木は、材木として人間が使って循環させてこそ、林業として成り立っていけます。
  杉・檜等の針葉樹は、植林後、数十年で建材として使える木に成長しますが、  広葉樹は植林しても木材として使うには、その2~3倍以上の時間がかかるそうです。そのため、私たちの周辺の山はほとんどが針葉樹が植えられています。昔は薪や炭焼きとしての需要があったので、雑木の山も多くありましたが、今は広葉樹では林業として経済的に成り立たせることがむずかしいというのが現状のようです。 
  夫も私も木が大好きなので、都幾川木建(ときがわもっけん)自宅(樹の家)の建設の際に、飯能の岡部材木店の提案を受けて、杉を構造の中心として、床や階段、梁などに建築用材として流通できずに見捨てられている様々な木を実験的に使ってみることもしました。広葉樹は家具の材料としては使われますが、建築材料として使うには、くせが強い木が多く、ひびが大きかったり、狂いが大きい、まっすぐな材が少ない等の理由で、建材として使いやすい素直な針葉樹と比べると結果として高価なものになってしまいます。ボランティアで手をかけるか、使わないかという選択になってしまい、日本の山が針葉樹一色になっていくのは無理もないことだとも思えるのです。でもその針葉樹も安い外材に押されて、国産材だけで家を建てられる人は、日本全体としては限られています。


 

  私自身もアイヌの木彫の人たちとの縁があり、身近にある山や里の木を使って彫るということを教わりました。木を単なる材料として扱う仕事のしかたではなく、鋸、鉈、斧を使って素材をつくり、大自然の生き物として感応呼応しながらの、ダイナミックでありながら繊細な仕事ぶりに影響を受けてきました。  

 

時の船 (ニッキ)1985年
時の船 (ニッキ)1985年

 木彫を習い始めてすぐのころは、朴、桂など製材された木彫用の板を買って彫っていましたが、次第にすぐそばにあるりんごの木を彫る(作品にジャンプします)ようになっていき、また、越生の黒山に住むようになってからは、林業、伐採業の方たちの知り合いが増えたこともあり、エゴノキ樟、栗、梅、桜、欅、クルミ、こぶし、ニッキ、蔦  など、大小様々な丸太を、その時々のテーマに添って彫ってきました。それらの多くは、不定形であったり、板にするには歩留まりの悪い木であるために、ごく少数の変木好みの人に売買されるか、山に放っておかれて朽ちてしまうか、薪やチップになってしまう木でした。 

山のこと

 越生の黒山に借りて住んでいた家は杉山に囲まれており、一年中深緑色のあまり変化のない景色の中で暮らしていました。家の真ん前にある山もほとんど杉でしたが、その中ほどに一本の雑木が生えていて、杉の濃い緑の中に、たった一本明るく柔らかな緑を纏って立っていました。日々の生活の中で私は前の山をながめながら、その孤立した広葉樹が生き延びていけるようにいつも祈っていました。

「綾錦を織り成す新緑と山桜 」   1992年頃撮影  写真/俵木栄一.文/長谷部操  
「綾錦を織り成す新緑と山桜 」 1992年頃撮影  写真/俵木栄一.文/長谷部操  

 龍ヶ谷の山桜を見に連れていってもらった時には、山桜の花だけでなく、まわりの山そのものが明るい春の色に輝き、針葉樹と広葉樹が混じり合った幸せな山に見えて、冷えていた私の心と体を暖かくほぐしてくれたのだと思います。
  「山桜」の歌の歌詞、二番の最後に、樹が「山を抱いている」という言葉をつかいました。本来ならば「山が樹を抱いている」とするところでしょうが、私にはこの山桜の高齢樹が、自分がこれから伐られて命を終えてしまうかもしれないという時にさえ、長い間見続けてきた人間の営みや山の変遷のすべてをゆるし、大きく抱えてくれているように感じました。それがこの言葉につながっていきました。


 
  日本は国土の約67%が森林でありながら、木材自給率は全体の3割弱で、あとは外国から買っているという世界有数の木材輸入国です。私たち日本人は七割もの材木を遠い外国から燃料をかけて買って、木を細切れにして紙やベニヤ板を作ったり、建物を作ったりしています。それでも最も自給率がもっと少なかった10年ほど前から比べると、国の施策もあり徐々に国産材を使う率は増えているのだそうです。
   国産、県産材、地元の木を使おう、山里の資源を生かしていこうという活動は建築関係のみならず日本各地の自治体、様々な団体、個人で行われていると思います。又、私の近くでも、ボランティアで植林をする人たち、林業の仕事や木を扱う仕事に目覚めた人、女性でも木の家具を作れるように指導してくれる木工クラブなども増えていて、それぞれの人の、心の必然をもって生き生きと活動しています。

 そして、木の分野だけでなく、エネルギー、衣食住の各分野で、伝統的な暮らし方や技術が消えていくという、同じような問題を抱えながらも、その中で活路を見いだそうとしている人はたくさんいます。それがたとえ全体から見れば数は少なく、ささやかな動きであったとしても、山の景色も、人の世の景色も、ただの一色だけではない「綾錦(あやにしき)を織り成す」ものとなって、それぞれの色を放ち耀いていると思います。   (2015.2.12)